「セッシ・ボン」忘れられないひとこと

「自分が思い描くような洋服を作れるようになりたい」

という想いで二十歳から通い始めたデザイン専門学校。

授業は、夜学という時間制限もあることから深く学ぶというよりも

広く浅くとりあえず一通りのことをやってみるという内容のものでした。

洋服作りの中でも、最も大事な柱となる型紙(パターン)作りにおいては

数字(寸法)だけを追い、それを紙の上で計算し割り出す方法で

製図にするやり方では、思うような洋服が仕上がらないと、気づいたのは、ちょうど専門学校を卒業する少し前くらい。

◎それまで作った作品は、着心地がしっくりこなく、落ち着かない。

◎好きな生地を選んで作ったのに、なぜか野暮ったい。

◎でも何が良くないのかまではわからない。

という状態でした。

小6の頃、家庭科の自由作品で

ピアノのリズムをとるメトロノームに布を当てて、立方体のカバーを作ったのは後から思えば、立体裁断でした。

誰に教わったわけでもないけれど、子供なりに布を当てて作れば形になるのでは…という想いがあったから。

「立体裁断」というキーワードに

何かこれを身につければ、思い描くものが

作れるようになるかもという

直感が働いたのかも知れません。

3年間の専門学校を卒業する23歳の頃

パリ・コレをはじめとした最新モードをビジュアルで紹介する

雑誌「モード・エ・モード」の後ろの方にあった記事で

「立体裁断の基礎知識」という

近藤れん子先生の教本が紹介されていて

立体裁断のテクニックは

◎洗練された感覚と正確な視覚訓練から始まる

◎従って器用だから優秀で、不器用だから下手だという定義づけられるものではない

◎美しいニュアンスを求める心と、それを表現したいという願うならば、必ずテクニックは自然に身につく

この三つの言葉に、わたしは希望を見出していたのだと思います。

その分厚い本に目を通しながら、期待に胸をふくらませて行った

東京立体裁断研究所の教室の見学で

故・近藤れん子先生に初めてお会いしたときの印象は

とにかく声が大きくハキハキお話される方

とても聡明でまっすぐな方だと感じました。

その年は、すでに定員がいっぱいで

翌年まで、一年間待って私の研究所通いが始まりました。

今まで専門学校で立体裁断という言葉は耳にしたことがあるけど

全く未経験の技術

◎自分の目と手、布を使っての立体造形

◎その布をいったん型紙に写し換え、製図に起こす

◎起こしたパターンを布で裁断し、組み立て仮縫いする

◎組み立てたものを、検討してパターン修正を行い

◎さらに洗練された美しさを追求する

そんな授業は、魅力にあふれている反面

理論的なものは、なかなか一度では理解できない面も

多くありました。

感覚的なものが好きな自分にとって

難しい説明の授業よりも、先生が発する言葉が好きで

みんなメモとらなくていいの?という気持ちで

これぞ、という語録に感動してはノートに書き留めていました。

例えば

「私の声が大きいのは、広い家で育ったから大きな声でないと聞こえなかったの!」とか

「親のすねは、かじれるだけかじるものよ!」

「私はお世辞が言えないから商売はできなかった」

などなど…

今まで聞いたこともない斬新なものばかり。

特に早く親から自立をしたくて

18才で上京した自分にとって

親のすねのくだりは衝撃的でした。

研究所とお住まいを兼用した素敵な建築の

お家をお父様にプレゼントしてもらったこと

当時は、まだパスポートも取得が難しかった

1960年代に長期間パリの留学ができたのも

お父様のお金だから!!と明るく笑顔でされるお話は

何度聞いても夢にあふれた楽しいエピソードでした。

そして当時70代だったれん子先生は

美容室で完璧にセットされた髪型にお化粧

整えられた爪に真っ赤なマニキュア

ご自分のデザインされたお洋服はもちろん

大ぶりなブローチや指輪、そして香水と

女性として生まれたことを

味わうように楽しんでいらっしゃるように感じました。

飲み込みに時間がかかるタイプで不器用な私でしたが

ただただ好きというだけで、必死に頑張った立体裁断。

写真は、前の週に教わり立体裁断したものを型紙に起こし、それぞれ家で組み立ててきて、これから先生にチェックしてもらうところ。真ん中のおでこちゃんが私です(笑)

講義中も「”年々、生徒の質が劣る”」

「日本の専門学校では目を養う教育が全くされていない」

「日本人は、本当に見る目がない」

などなど手厳しい辛口発言が多い、れん子先生でしたが

一年間のベーシッククラスが終了する最後の授業で

ジャケットの作品を点検してもらった際に

「セッシボン!!  あなた、やればできるじゃない」と

初めて褒められた嬉しさは、今でも体に残っているくらいの衝撃でした。

(セッシボン!!はフランス語で素晴らしいという意味)

当時一緒に頑張った友人たちは

ロンドンに留学後、向こうで自分のブランドを立ち上げたり

アメリカにお嫁に行ったり

イタリアに留学後帰ってこなかったり

となぜか海外に住んでいる友人ばかりで

皆で集まることが、ほとんどないのですが

研究所を卒業したあとに、れん子先生のアシスタントとして

先生が亡くなるまで、東京立体裁断研究所のスタッフとして働いた友人とだけは今でも繋がっています。

パンツの仮縫い実習の日の写真。れん子先生は前列左側。(先生のすぐ後ろが私、親友のきよぴんは左端)

2011年8月9日に90才でお亡くなりになられた近藤れん子先生。

毎年恒例の三日間集中・夏期講習会も長く通ったので

8月の命日も近い真夏になると先生のことが偲ばれます。

立体裁断に出会っていなければ

100%ウェディングドレスの仕事に

携わることはなかったので

1996年から現在まで

沢山のお客様との出会いを

もたらしてくださったのも

すべてが、れん子先生のおかげだと思っています。

研究所を運営する教育者としての他

ファッションデザイナーでもあり

発明家、実業家でもあった近藤れん子先生に出会えたこと

そして直接たくさんの教えをいただいた感謝の気持ちを

いつも、そしていつまでも忘れずにいられますように。

れん子先生が作り上げられた数々の美しい洋服

素敵な設計で建てられた研究所の外観と室内

個性的デザインの窓枠から差し込む陽射し

中庭にあった大きな桜の木と通り抜ける風

何十体もあった人台(立体裁断用のマネキン)

アイロンをかけて、少し焦げかけた木綿の生地のにおい

どんな質問にもまっすぐに答えてくださった

れん子先生の大きなお声と心からの笑顔

魔法のようにどんな作品をも最高に素晴らしくしてしまう美しい手を

懐かしくそして愛おしく思い出します。

大切な思い出を沢山作ってくださった近藤れん子先生に

心からのあふれる感謝の気持ちを込めて。

真ん中の席で座ってグレーのスーツをお召しになられているのがれん子先生。

この日は一年間の最後の授業が終わって、先生もホッとされたところ。

20名の定員の入学時から、一年間で約半数に減っていました。毎週土曜日の丸一日の授業で、家での課題も多かったので働きながら続けるのはなかなかの忍耐力が必要でした。

そんな私たちを引っ張っていくれん子先生が一番大変だったことが、今この年齢になってやっと想像することができます。

れん子先生、本当に貴重な教えや心構えを私たち生徒に授けてくださりありがとうございました。